オーニングとは何?
外為とは、カンバス地などでできた日よけ、雨よけのこと。日光の直射を避けたり、雨よけのために、窓や出入り口、壁などに取り付けられる。 庇(廂、ひさし)は、開口部の上に取り付けられる雨よけ用の小型の屋根。 日本建築では、ろく庇と腕木庇の二つが主に造られている。 不動産と呼ばれる上辺に勾配をつけて加工した板、数枚と鼻隠を梯子型に組み、取り付ける位置に釘やビスで打ち付ける。上に野地板を張り、板金を葺く。軒裏に軒天井板を張る。シンプルに作ることができ、主にモルタル壁等の近代的な壁仕上げの家によく見られる。 腕木庇 柱にほぞ穴をつくり、ほぞを差し込んで付けられた腕木に小さな桁(出し桁)を掛け、厚い板を直接張るか、垂木を掛け、上に板を張り、銅板や瓦などで葺いて仕上げる。日本の伝統工法に多く用いられ、意匠的に造られることも多いが、簡易に造る場合にも用いられる。 近年では、金属製のすでに造られたものを金属製サッシュのように簡単に取り付けられるものもある。アルミ製、ステンレス製のものがある。 FXはアルミ押出形材である。型材は強度を保ち、耐久性がある。アルミは軽量かつ熱反射率がよく耐蝕性があり、溶融点が比較的低く鋳造に適しており施工が容易である。つまり、エネルギーロスが比較的低い。レール嵌合タイプの庇は取付面がコンパクトである。取り外しが容易であり、営繕時には、補修後に再度使用できる。電化製品の排気がない[要出典] 。 庇のトップ部に幾つかの形状をした部分を挿入して、なだらかなラインや堅い印象を出すことができる。庇にフックを取付けて、物干や花台に活用できるものもある。 原始・古代(竪穴住居、高床式住居) 平安時代には貴族の住まいとして寝殿造が成立した。庶民の住居は相変わらず竪穴住居が主流であった。 鎌倉時代の武士の住まいは武家造と呼ばれることもあるが、今日では寝殿造を簡略化したものと考えられている。 窓枠のことをいう。サッシュということもある。ガラスなどをはめ込んで用いる建材の一つ。 古くは木製、鉄製が多かったが、後に腐食に強く加工が楽なアルミニウム製のもの(アルミサッシ)がほとんどとなった。最近では、結露の防止や保温性を重視した樹脂製のサッシも見られる。また、サッシの断熱性能について、省エネ建材等級制度が2008年度からスタートし、熱貫流率値2.33W/m2Kを最高値とした星付けが行われ、熱貫流率の性能値も表示される。 鉛直方向に足場を組んだ道具のことである。壁の表面などに立てかけて使う固い材質でできたものと、頂上から吊るして使う縄などでできたものがある。梯子の足場は格(こ)または段と呼ばれる。固い材質の梯子は移動して用いられることが多いが、建物の壁に永久的に固定されているものもある。鉄道車両においては緊急時に車両から脱出する場合に使用する。 また、次々と場所を変えて酒を飲むことを指す梯子酒、梯子飲みを略して梯子と呼ぶことがある。 転じて、次々と場所を変えることを梯子すると呼ぶことがある。 固い材質の梯子は次のようないろいろな形で用いられる。 固定された梯子(2本の枠がいくつかの格で連結され、移動する部分を持たない) 延長する梯子(固定された梯子が2つまたはそれ以上の長さに分割され、保管に便利になっている。その長さは互いにスライドさせることにより最大の長さとなる。地上の操作者によって簡単に延長できるよう、滑車のシステムが付いている)二連梯子、三連梯子などと呼ばれる。 伸縮自在の梯子(枠が短い同一形状の管材でできており、保管のためにそれぞれが内部にスライドする) 屋根梯子(頂上に大きなフックがあり、傾いた屋根の尾根を挟む固い梯子) フック梯子(頂上に大きなフックがあり、窓の下枠を挟む。消防士が使用する。鍵付き梯子とも言う。) 回転する梯子(消防車についている頂上に回転する台を持つ伸縮できる梯子) 脚立(中央が折れ曲がって逆V字型になり、角度が固定される) platform 梯子(頂上に小さな水平の壇を設けたもの) 固い梯子は木製や竹製のものがもともと多かった。20世紀にはアルミニウムが軽量であることから一般的になった。電線の近くで作業するための梯子には、絶縁体の竹やガラス繊維強化プラスチック製の梯子が使われている。他、チタン製でアルミ製よりも軽量なものもある。 今日の和風住宅の原型が成立したのは室町時代である。足利義満の邸宅はまだ寝殿造の面影を留めていたが、いわゆる東山文化の時代(応仁の乱前後)の足利義政の邸宅になると、初期書院造と呼ばれるものになる。畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間などの座敷飾りが造られるようになった。 織田信長による天下統一は、住宅史上も画期になったと考えられる。信長の安土城や、豊臣秀吉の大坂城などにおいて身分の序列を著し権力者の威厳を示すため、書院造が完成した。家臣は城下町に住むよう命じられ、狩野永徳の洛中洛外図屏風などから、都市建築(町屋、武家屋敷など)も発達してきたことが伺える。 上層の住まいとして書院造が定着し、江戸時代以降、茶室の要素を採り入れたいわゆる数寄屋造り(数寄屋風書院)の住宅も造られるようになった。 中世の絵巻物などに庶民の町屋が描かれているが、それを見ると、平屋建、板葺き屋根など非常に簡素なものだったことが伺える。 江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していった。大まかに言えば、関西の住宅の方が質が高く、構造や工法が次第に関東にも影響を与えていった。 近世初期の関東で一般的な農民の住まいは、土間に囲炉裏を作り、床にむしろなどを敷くようなものも多かった。工法も古代・中世と余り変わらず、掘立柱を立て、茅で屋根や壁を葺くようなものであった。経済的に向上するに従って、住宅の質も次第に上がり、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝に使う部屋が造られていった。高い技能を持った職人が関与するようになり、工法も礎石の上に柱を据え、梁を複雑に組み合わせて造るように変わった。ただし、土壁や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かった。江戸時代後期以降になると「田の字型」の間取りが広く普及していったが、この間取りは結婚や葬儀など人が多く集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせてふすまを開け閉めして用いた。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものには、「田の字型」のタイプが多く見られる。 江戸時代には住宅にも身分による統制が行われていた。例えば武士や名主クラスの農家では、床の間などを造ることが許されたが、庶民が床の間を造ることや瓦葺屋根にすることなどは贅沢だとして禁止されることが一般的だった。(ただし、防火のため瓦葺屋根を奨励されたり、義務付けられた町もある) 明治時代になると建築に関する封建的な規制もなくなり、資力に応じて住宅を造るようになった。西洋建築の技術にも刺激され、大工道具の質も上がり、職人の交流も活発になったことなどで、建築の質は全体に向上していった。明治時代に洋風の住宅(西洋館)に住むのは、政治家、実業家などごく限られた階層の一部の者であり、ほとんどは和風住宅であった。 大正時代以降、サラリーマン、都市知識人らが洋風の生活に憧れ、一部洋風を採り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外に多く造られるようになった。しかし、家の中では靴を脱ぎ、畳でくつろぐといった生活スタイル自体はほとんど変わらなかった。 第二次世界大戦後、住宅難の中で公団住宅など、大量供給型の住宅が造られた。合理的な生活を目指してダイニングキッチンなどが新たに工夫された。 かつては床の間のない家はほとんど考えられなかったが、今日では洋風の住まいが普及し、新築の家は、和室と共に床の間のある例も減少してきている。また、かつての住宅は農家でも町屋でも、生業と結びついた職住一致のものが多かったが、現在は職住分離の方が主流になっている。